短すぎる夏に、永遠のように感じる夏休みが、かえって勿体ないような気がする。
京都で初めて、大学生として夏を過ごした。友達との外出やサークルの合宿、行ったことのなかった場所への旅行、久しぶりに訪れた場所との再会。そういう機会を、今のうちに楽しまなければならないというプレッシャーも、少なからず感じてしまう。
アスファルトに秘められていたような蒸し暑さが薄まり、盆地を囲む山々の向こうから雲がやってくる。秋の気配が強くなれば、またチャイムが鳴り出すだろう。涼しくなったことは大変嬉しいけれど、自由に過ごせる時間だって、限りのある時間なのだと実感してしまう。
ブザー音のようなチャイムは、人生の新しいチャプターの合図にも感じる。一回生になったばかりの私は、春学期の学びと経験を通じて、少しは同志社での大学生活を理解したつもりでいる。京都での生活にも慣れたつもりでいる。
けれど、密かに山々の向こうからやってくる白い雲のように、不確かで、何気に予測できない秋学期を前にすると、希望もあれば、不安もないではない。
新しい経験、新しい学び、新しい出会いが待っているからだろうか。それとも、自分がもう目の前の環境に慣れたと思い込んでいることに、幻滅したくないからなのだろうか。
同じ煉瓦の赤に、異なる空模様。同じ建物名に、異なる授業名。
それ自体には、不安というほどの不安を抱いてはいない。ただ、胸がドキドキするのは確かだ。初めて長袖で大学に通い、初めて雪の降り積もった道を、授業の合間に行き来する。
大概、春学期と変わらない気もする。
大概、変わらないことなんてないような気もする。
一つ確かなことは、大学に通い続けること。そして、考えすぎることには、おそらくそれほど意味がないということ。
だから今は、山々の向こうからやってくる白い雲を眺めながら、次のチャイムを待っていようと思う。
少し聞き慣れた京都の言葉や、自分だけの帰り道があるような感覚。まだ少し慣れ切れない京都の交通ルールや、よく訪れるカフェやバーで常連になれた感覚。
履修登録や授業削除の時期が迫っている今では、再び大学が始まる気配も、ずいぶん現実味を帯びてきた。
夏休みをもっと大切に過ごせばよかった、と思う瞬間はきっとこれからもあるのだろう。けれど、何をして、何をしなかったかを数え始めれば、きっとどこかで「勿体ない」という言葉に追いつかなくなる。
だから、秋が来たら秋を過ごそうと思う。
またチャイムが鳴る。
その音を聞いたら、今度は今度の季節を始めればいい。
そして、来年はまた頼りない市バスに乗り、友達と夕焼けに染まる鴨川で花火を上げれば良い。


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